甘いものには目がない有川(@otomechan_nel)です。
今回は遙か3の譲のこの発言が気になって
譲は京で蜂蜜プリンを作れるのか!?
を検証・考察してみました。
※本記事は資料やWEB上の記事に基づき、有川が考えた推論です。
※史実厨になるつもりはありません。あくまでゲームだし、白龍「神子の世界とは違う」といってるので。
この記事では以下3つに焦点を当てました。
- 材料はあるのか?
- 道具はあるのか?
- 蜂蜜プリンの作り方in京
個人的に「蜂蜜を手に入れるのは難しいけど、他は何とかなりそう」と思って調べ始めたのですが・・・
とんでもない結果になりました。
1.材料はあるの?
ところで、蜂蜜プリンの材料って何が必要なんだ?
プリンを作るのに最低限必要なのは・・・
- 卵
- 牛乳
- 砂糖
この3つよ。
本当にシンプルなプリンね。ここにバニラエッセンスを加えて風味をよくしたり、生クリームを入れて濃厚なプリンにすることはできるけど、ただプリンを作るならコレで十分よ。
1-1.蜂蜜プリンの材料とは?
と、いうわけで譲が作った蜂蜜ぷりんに必要な材料は
- 蜂蜜
- 卵
- 牛乳
とします。
(他にもレシピはあると思いますが、極力シンプル最低限で)
さあ、では本題。
譲は蜂蜜をGETできたんでしょうか。下の項目で詳しく見ていきます。
1-2.蜂蜜のGET方法
譲、蜂蜜を景時さんからもらう。
あなたは普段、蜂蜜をよく食べますか?
ヨーグルトにかけたり、トーストに塗ったり、お菓子作りに使ったり・・・用途は様々。
健康食品としても注目されているので、意識的に摂っている方もいますね。
ちなみに私は、しょうがの蜂蜜漬けを作って白湯で割って飲むのが好きです(*´Д`)
そんなふうに、今でこそ普通に食べられるようになった蜂蜜ですが・・・庶民が口にできるようになるまでの経緯を簡単に振り返ります。
ようこそ日本へ
蜂蜜の文字がはっきりと史料に出てくるのは奈良時代。近隣国から献上物として、時の天皇にプレゼントされていました。
かの有名な鑑真も、唐から持ってきてくれていたようです。
唐から日本へもたらそうとした品物の「石蜜・蔗糖等五百余斤、蜂蜜十斛及甘蔗八十束」とあることによります。
『図説 和菓子の今昔』青木直己著 株式会社淡交社 2000年 p27
蜜蜂自体は、どうやら627年に目撃されていたようですが(『日本書紀』)、そのときは「夏五月、蝿有り、聚集れり、その凝り累なること十丈ばかり、虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。鳴く音雷の如し。すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」と記載されていて、「蝿」と思われていたようです。
蜂の群れに遭遇したことは幸い、今まで一度もありませんが・・・テレビとか見てると確かに飛ぶ音は蝿ぽい・・・かな・・・?
鳴く音雷の如しってありますけど、そうとう数がいたのかな。
国内でも平安時代になると、国外から入ってきたものだけでなく、国内でも献上されていた記録が出てきます。
平安時代になると、国内でも蜜を献上していた記録が見られるようになります。
「延喜式」(905~927年)には、「蜜、甲斐国1升、相模国1升、信濃国1升、能登国1升5合、越後国1升5合、備中国1升、備後国2升」とあり、別の箇所には「摂津国蜂房(蜜の貯まった巣)7両、伊勢国蜂房1斤12両」を献上したと記載されています。蜂房とは、はちみつの貯まった巣のことですから、はちみつだけでなく、蜜巣まで献上されていたようです。
甲斐は今の長野で、相模は神奈川、能登は石川ですから様々な地域から献上されていたことがわかります。
高級品だったってことだよな。
だから、平安時代からその存在は知られていたでしょうけど、いわゆる農民・・・普通の人が口にすることはまずなかったでしょうね。
庶民が口にするのは
蜂蜜が「買える」ようになったのは、江戸時代に入ってから。
動植物の分類に大きく貢献した小野蘭山が著した「本草綱目啓蒙」は、文化2年(1805 )に出版され、はちみつの産地として芸州広島の山代、石州、筑前、土州、薩州、豊後、丹波、丹後、但州、雲州、勢州、尾州を上げています。
しかし、販売されるときには、すべて“熊野蜜”として売られており、当時、熊野がはちみつの最大の産地としてブランド化されていたことがうかがえます。
ともかく、「販売される」ってことは、お金があれば買えるわけだから、一般の人も食べられる可能性はあったわけね。
肝心の鎌倉時代は?
平安から江戸ってずいぶんと間があるだろ?その間は?
平安時代の終わりごろには、「今鏡」では貴族が、「今昔物語」では庶民の間でミツバチが飼われていた様子が描かれています。鎌倉時代から中世にかけての間では、文献上に養蜂関係の記載はみられません。
結局、譲はどうやってはちみつを手に入れたの?
譲たちが飛ばされたのは、1183~5年くらいなので平安時代の終わり。
昔は”1192年(イイクニ)つくろう鎌倉幕府”で、鎌倉時代の幕開けでしたが、最近は1185年、頼朝が守護・地頭の配置を始めたときが鎌倉時代のスタートとするようになってきているので、平安時代と鎌倉時代の境ですね。
先述したように、平安初期から献上物として存在していたので、何らかの形で蜂蜜を作っていたと思われますが、史料にはっきりとは残っていないようです。
そして、献上物ということはかなりの高級品です。天皇に納めているものなので、譲たちがおいそれと食べられる物ではなかったでしょう。
ただし!
じゃあ、ここで「蜂蜜プリンは嘘でした」というつもりもなく(笑)
譲がはちみつぷりんを作ったのは景時さんの邸でした。
つまり「景時さんのもの」があるわけです。ニヤ(・∀・)ニヤ
景時さんは、頼朝の御家人。頼朝の御家人ともなると当時の武士としては結構高い位です。
仮に、頼朝が何かのときに、天皇から蜂蜜を賜っていて(※1)、それを褒美として景時さんにもおすそ分け(※2)していたら・・・!?
- ※1:あの頃の天皇、誰だったか覚えていますか?遙か3にも出てきている安徳帝です。しかし、実際のところ後白河法皇が後ろで実権を握って政治を牛耳っていました。(院政)てことで、あの後白河法皇なら頼朝になにかあげててもおかしくはなさそう・・・ですよね。法皇が当時力があったとはいえ、頼朝に何かをあげるきっかけが思いつきませんが(笑)
- ※2:頼朝が景時さんに、上司が部下に褒美をとらせることは、ままあること。しかも、後白河法皇(仮)からもらったものを・・・というのは、今なら「人からもらった物を他人にあげるなんて!」と、なるかもしれませんが景時さんのことをよっぽど認めていたなら可能性としてはありえます。現代でいうなら「これは、先代の社長から譲り受けたものなんだが・・・お前にやろう」って感じで。
それから、譲が景時さんに聞いたかもしれません。
「景時さん、料理に使える甘いものってありませんか」
と。
当時の甘味料としては、甘葛煎(あまづらせん)が主流だったようですが、こちらもなかなかの貴重品でした。
ならば、「頼朝様からもらったこれなら・・・(実はもてあましていたし)」ってことで、譲にくれたかもしれない!!
なので、ここでは
譲、蜂蜜を景時さんからもらう。
としておきます。夢は大きく。
参考
- 日本の養蜂の歴史
- 『図説 和菓子の今昔』青木直己著 株式会社淡交社 2000年
1-3.卵のGET方法
譲、景時邸でこっそり卵を手に入れる。
卵は神聖なもの
日本最初の歴史書『日本書紀』は、こんな記述で始まる。
<古、いまだ天地わかたれず、陰陽わかれざるとき、渾沌たること鶏子のごとく、その清く陽なるものは天となり、重く濁れるものは地となる>
「鶏子(けいし)」は鶏卵のこと。天地ができる前の混沌とした宇宙のたとえに卵が使われているのだ。
卵を生む鶏も、神聖なものとして敬われてきた。天照大神が天岩戸に隠れてしまったとき、神の使いである鶏が鳴いて“太陽”を呼び出したと伝えられている。天照大神を祀る伊勢神宮では、いまも神鶏が飼われている。
675(天武天皇4)年、天武天皇は牛、馬、犬、猿とともに、鶏を食すことに禁令を出した。「人間も動物も平等」とする仏教の戒律が理由だったと考えられている。
その一方で、卵については食の禁令は出ていなかった。だが、日本人は卵を食べることを避けてきたのだ。そこには、食べると恐ろしい報いを受けるという因果応報の考えがあった。
仏教的に、卵を食べること=殺生だったみたね。だから避けていたし、天武天皇も食べることを禁止したってことね。
それから、卵を食べるようになったのは、安土桃山時代ごろ。南蛮貿易でカステラみたいな卵を使ったお菓子が入ってきてからだそうよ。
卵は生き物ではないからセーフっていう考え方になってきたのね。
卵料理100種
たまご売りっていう職業もあったみたいだけど、でも高級品だったみたいね。
高値の理由として考えられるのは、
・基本的に肉食が禁じられていたため、鶏は食用ではなく、愛玩用に飼われていた
(卵の販売を目的とした養鶏所ができたのは、江戸末期のこと)・当時の鶏は、毎日卵を産まなかった(品種改良を重ねた現在の鶏は、25時間に1個の間隔で卵を産みますが、本来の鶏は、5~6日に1個のペース。しかも暑さ寒さが厳しい季節や、卵を温めている間は次の卵を産みませんでした)
といった理由からで、卵というものは、江戸近郊の百姓家が、庭で放し飼いにしている鶏が自然に産んだ卵を、野菜のついでに売りに来るものだったようです。
江戸末期には生卵やゆで卵の行商人もいましたが、浮世絵などを見ると、八百屋の一角にもみ殻を敷き詰めた板箱を置き、そこに卵を一つずつ立てて売られている様子が描かれています。
江戸時代の鶏は、今みたいに品種改良されてないから卵を産むペースが全然違ったんだな。こりゃあ、卵はレアものだな。
結局、譲は卵をGETできたの?
奈良時代に鶏肉食禁止令が出されて以降、たびたび同じような禁止令が出されていたようです。ちょっとやそっとじゃ完全に食べるのを禁止させることはできなかったんですね。
中には、きじ肉だから・・・といって鶏肉を食べていた人もいたらしいです。いつの時代も人間がすることは同じ(笑)
じゃあ、肝心の卵ですが。
まず、買うのは無理。
となると、蜂蜜以上に入手が困難なような・・・尼僧である朔がいるので、現代感覚で説得しても「だめなものはだめ」ってしそうだし。
仮に、梶原邸に鶏がいたとしてもその時代の鶏は5~6日に1個産む程度。卵1個で、ぷりん・・・2個分くらいかな・・・器にもよるけど。
卵GET方法は
梶原邸に鶏がいて、その卵を譲が運よくGETした!
と、しておきましょう(笑)
参考
1-4.牛乳のGET方法
譲、献上用の牛乳をおすそわけしてもらう。
では最後に、牛乳のGET方法を見てみましょう。
乳製品は税だった
薬用として貴重だった牛乳は、京都や奈良を中心にできた「乳戸(にゅうこ)」と呼ばれた酪農家から、毎日2,300mlも天皇一家に納められるようになりました。関東から九州まで、酪農が広まって搾乳量が増えると、牛乳を10分の1に煮詰めた「蘇(そ)」を税として納める「貢蘇(こうそ)」の制度が927年にできました。
やがて平安貴族の藤原家にも蘇の利用は広まり、天皇一家だけではなく、貴族の健康維持や病気の回復に薬として重宝されました。
世界一長い小説「源氏物語」を書いた紫式部のパワーも、牛乳や蘇のおかげかもしれません。
しかし平安末期になると武士の台頭とともに朝廷の力も弱くなり、牛より軍馬の生産に力が注がれるようになったために、貢蘇の制度もすたれていったのです。
ってことは、また高級品か・・・譲の作ったプリン、後白河法皇に献上できるレベルの一品だな(笑)
「醍醐味」の「醍醐」は実は乳製品
ってことは、牛乳もアウトなんじゃねえの。
それでも、譲たちのとんだ平安末期は戦の世の中だったわよね。
戦で牛なんか使わないじゃない?
また、仏教の理想を記した涅槃経には「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥(せいそ)を出し、生酥より熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥より醍醐をだす」といった記載があります。醍醐が最高の美味だったそうです。「醍醐味」という言葉がここから来たことは容易に推察できます。
これら5品はいずれも乳製品であり、酪はヨーグルト、酥は濃縮乳、醍醐はチーズかバターオイルのようなものだったと考えられています。
仏教が日本に伝来したことで、牛乳の高徳の教えが広まり、日本におけるミルクの基礎が確立されました。
以後、乳製品は貴族の間で滋養強壮剤として重宝され、奈良時代から平安時代にかけて、酥が盛んにつくられました。三宮(天皇・皇后・皇太子)に供御した牛乳の量は1日約5.7リットルだったそうですので、この時代の天皇家ではかなりの量の牛乳が利用されていました。
しかし、平安末期になると、ミルクは急に利用されなくなりました。戦乱が多くなりそれまで牛乳を利用していた朝廷の勢力が衰えたことと、朝廷にかわって政治を司るようになった武士達の間では牛乳はなじみがなく、大豆を利用した味噌や納豆といったものがよく食されたことなどが要因でした。
農業に牛馬耕っていう方法が鎌倉時代にあった(鎌倉時代に西日本を中心に普及。西日本なのは天皇がいたからなのか・・・どうなのか)から、牛そのものはいたんでしょうけど。でも、乳牛ではないでしょうから、牛乳は廃れていったんでしょうね。
庶民が手にできるのは明治時代から
それから明治に入って、一般にも普及したみたいね。
明治時代の牛乳は文明開化の先端
明治4年に、天皇が牛乳を毎日2回ずつ飲んでいることが新聞に載ると、国民の間にも牛乳飲用が次第に広まりました。世の中は文明開化一色となり、何事にも欧米を真似するようになりました。
東京では、大名・旗本の屋敷跡で牛を飼い、牛乳を販売することは、収入を失った武士たちの転換事業となったようです。
公爵や子爵が牛乳屋を経営し、配達員が大きな缶で一軒一軒計り売りをするというのがその頃の状況でした。やがて、容器も180ml のブリキ製の缶から瀬戸物のびん、ガラスびんへと変わってきました。
こうして、酪農の発展と製造技術の進歩で広く普及した牛乳は、いまや私たちの生活に欠かせない食品となっています。
結局、譲は牛乳をGETできたの?
蜂蜜、卵・・・ともに高級品。そして、牛乳は存在そのものが廃れている・・・!!これは、厳しい。
しかし、幸い邸があったのは京。京都のあたりなのです。
後白河法皇が「蘇が食べたい」って言って、作らせていたかもしれない!!
そうなると、京には牛乳が存在していた可能性はゼロじゃないですよね。
献上用の牛乳は酪農家が納めていたそうです。で、しかもそれが京都の北野天満宮近くにあったという。
牛乳が一種の税金として天皇家に献上を義務付けられる事に拠って、各地にある酪農牧場から献上された牛乳を管轄して、天皇家に差し出す機関として、乳牛院が京都右近馬場(現在の京都府・北野天満宮付近)に設立されました。乳牛院は、天皇家直属の典薬寮(厚生労働省)管轄機関の一つです。
これは!!GETできる予感!!!
譲が言葉巧みに、後白河天皇の名前を借りて、牛乳をGETしていたかもしれない。
望美にはちみつぷりんを食べてもらうために、あの子は頑張ったんですよ・・・!!!
はい、てなわけで。
譲、言葉巧みに献上用の牛乳をおすそ分けしてもらう。
以上(笑)
参考
蜂蜜は今でも薬っぽいし、特に甘いものって貴重品なイメージがあったけど・・・卵と牛乳よ・・・!
この記事、「蜂蜜はなかったけど、それ以外のものはなんとかなったよ」っていう方向で進むかなと思ってたのにどんでん返し(笑)
だから、そんなもんよ。
では、次は道具を見てみます。
2.プリンを作る道具はあったの?
梶原家の蒸し器を使った。
あなたはプリンを作ったことがありますか?
プリンはゼラチンで固める方法と、蒸して作る方法がありますよね。
で、私は「蒸す」方法で譲は蜂蜜プリンを作ったと考えています。
理由は二つ
- 蒸すのは昔からやってた(イメージがある)から
- ゼラチンを寒天で代用しても入手が難しそうだから
そして、案の定。
寒天は江戸時代以降に使われていたようです(笑)なにこの江戸時代の万能っぷりはw
寒天は天草などの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品です。
しかし、トコロテンを食料として用いた歴史はさらに古く、平安時代に中国大陸から伝えられた、当時の宮廷や高貴な人々のぜいたくな食品であったといわれます。
このトコロテンから寒天とする手法を発見したのは、徳川時代に伏見で本陣を営んでいた美濃屋太郎左衛門といわれ、参勤交代の途上宿泊した島津公をもてなす為に作ったトコロテン料理の残りを、戸外に捨てたところ厳冬であったため数日後に白状に変化していたことから興味もち、この製造に取り組み、後に「トコロテンの乾物」と名付けて販売を始めたのが起こりといわれます。
ところてんは平安時代には普通に食べてたみたいですね。
けど、男子高校生(有能)でもところてんから寒天を作って、それをプリンに・・・なんて難しいだろ。
譲の「ちょっとした」工夫のレベルが高すぎるww
と、いうことで蒸して作る方向に。
私が考えていたのは「饅頭」です。温泉饅頭が定番のように、蒸すお菓子といったら饅頭だろう、と。
しかし、饅頭は鎌倉時代以降に伝来したようで。
饅頭はいつ頃日本へもたらされたのでしょう。一般には羊羹同様、点心として鎌倉時代以降、禅僧によって中国から伝来したと言い、・・・(後略)
『図説 和菓子の今昔』青木直己著 株式会社淡交社 2000年 p45
じゃあ、蒸す方法もそのあたりからなのかというと、答えはノー。
蒸すのはなんと弥生時代から行われていたそう。「甑(こしき)」という道具を使ってました。(これが蒸すなのか、炊くなのかは区別が難しいところですが)
立派に蒸し器ですね。衣服があったので、布は珍しいものではなかったはず。
そして、譲たちが飛ばされた平安時代。
いまの時代、昔ながらの蒸す道具と言えば蒸籠だろう。ならば、いつ頃から甑は蒸籠に取って代わられたのだろうか。
平安時代になると、それまでの土器に代わり、木製の甑が登場する。最初は、薄い板を曲げて円形にする曲げものが用いられていた。単に曲げものの底に穴を開けただけのもののほか、底を抜いて支えとなる木を渡し、簀子(すのこ)などを敷いたものも使われていた。
底を抜くことで蒸気の通りも良くなったうえに軽くなり、2段、3段と重ねられるようになった。これがいまでも使われている蒸籠の原型である。
はい、ということで蒸す作業は譲もできるぞおお!!!(笑)
では、蒸して作るにしても必要な道具は何でしょうか。
現代で考えてれば・・・
- 蒸し器
この1つ(笑)
ただし、上記で引用したように、蒸し器と同じ役割を果たす甑があると思うので、あとはこれが庶民の家にもあったのか、ということです。
これは資料を探し出せずわからなかったのですが、甑自体は弥生時代から使われていたものなので、どんな人でも使っていたと思います。
おこわのようにご飯を蒸して食べる料理もありますし、おめでたい席で食べていた様子。
と、いうことは梶原邸にも蒸し器はあったと推測します。
[aside type=”normal”]おまけ~梶原邸の台所事情~
システムキッチンもない時代に飛ばされた譲。
彼はどのようにして、料理をしていたのでしょうか。
梶原邸の台所(調理場)をみてみると・・・
広い!でかい!!
家の中に今のように調理場が設けられるようになったのは明治以降のようなので、こんだけでかい調理場があるっていうだけでも、梶原邸のスゴさがわかります。(借りてたものだけど)
平安時代いわゆる台所は大炊殿(おおいどの)や厨(くりや)と呼ばれていました。
台所の語源をたずねると、平安時代にさかのぼります。当時、内裏や貴族の家にみられた台盤所(だいばんどころ)がそれです。
台盤所とは、台盤という食べ物を盛った盤(皿)をのせる台を置き、配膳するへやでした。清涼殿の台盤は横長の机のような形をしていました。ここは配膳する女房たちのサロンであり、食事をする場所でもありました。
つまり、台所のもともとの意味は炊事場ではなく、パントリー(配膳室)だったわけです。
料理をすればにおいや煙などが気になるので、外にある建物でやってたみたいですね。
しかも、庶民は座って調理するのが普通で、大正時代あたりでやっとそれが今のたって調理するスタイルになったとか・・・?
上層階級の住宅では、台所は家族のスペースではなく、
女中のスペース、つまり、使用人のスペースとして扱われていました。この流れは、戦前まで続くことになります。
もちろん、古代から江戸時代に至るまで、一般庶民の住宅では、台所は土間であり、土の上でしゃがんで炊事をする作業場であり続けたのです。現代に続く変化が起こったのは、大正時代のこと。
家政学の立場から調理がとりあげられるようになり、立働式(たちばたらきしき)ときょざ式(しゃがみしき)の是非が論じられるようになりました。
そのため、大正時代の末ごろになると、台所に板床を張り、立って仕事をする形式が、建築家が設計した住宅に定着するようになります。
でも、ドラマとかでかまどでご飯炊くところって、立って調理してるよね?あれはご飯炊くだけで、別スペースなのかな??
上の梶原邸の台所は一応壁際にかまどがあって、煙とか外へ出せそうだけど・・・
蒸す作業、どうやってやるの・・・??
一応かまどでご飯を炊く代わりに、蒸してることを想定して、話を進めましょう。[/aside]
さて、材料も道具もそろいました。
蜂蜜プリン、作りましょう。
3.平安末期にプリンを作る
では、最後に蜂蜜プリンを再現するための、レシピをお披露目しておきます!
3-1.蜂蜜プリンの作り方in京
[voice icon=”http://otomechannel.com/wp-content/uploads/2017/12/tw20.jpg” type=”l”]では、今から蜂蜜プリンの作り方を説明しますね。[/chat]
【材料】
- 蜂蜜・・・30g(景時さんから頂きました。なんでも頼朝さんからもらったそうです)
- 卵・・・1個(景時さんの邸の庭にいた鶏から。朝採りです。)
- 牛乳・・・120g(どうしてもプリンを作りたかったので、とある所から分けてもらいました)
【作り方】
1、卵と牛乳をよく混ぜる。(すり鉢みたいなものがあったので、借りました)
2、布巾を使って漉す。(手ぬぐいみたいなものがあったので、それを使って漉しました)
3、卵と牛乳を容器に入れて、蒸す。(容器は竹筒があったので、それで代用します。蒸すときは火加減に注意してください)
4、蜂蜜を上からかけて、完成!
譲先生からのワンポイントアドバイス☆
[voice icon=”http://otomechannel.com/wp-content/uploads/2017/12/tw20.jpg” type=”l”]漉すことで舌触りが滑らかになるので、ぜひやってくださいね。
漉したところに蜂蜜をいれて、混ぜてもいいです。そのときは、蜂蜜が固まらないように温めながらやってください。
温めかたですか?・・・工夫すればなんとかなりますよ。[/chat]
【完成】
4.結論
Q:蜂蜜ぷりんを作ることはできたのか?
A:譲の大いなる努力により、可能!!
望美に現代のものを食べさせてあげたいっていう譲の強い想いがあったからこそ、だな!!
同じ男として尊敬するぜ!!
まーでも結構面白かったぜ!次もこういう、ゲームと照らし合わせるってのやってみようぜ。
「遙かなる時空の中で3」における怨霊の作られ方
を調べてみようと思います。
遙か3の世界では怨霊の特徴を調べているうちに、「平家が作ってるのはわかってたけど、具体的には?」「清盛や敦盛さんみたいな怨霊と一般兵の怨霊の違いって?」など気になる点が出てきたので、そこを考察していきます。
では、ここまでお読み頂きありがとうございました!
次の記事でお会いしましょう!
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